先日、ある社長からこんな相談を受けました。創業30年の製造業で、会社を売ることがほぼ決まり、あとは契約を結ぶだけという段階でした。「税理士も顧問についているから大丈夫」とおっしゃっていたのですが、私はひとつだけ確認させてほしいことがあると伝えました。「退職金の設計は、もう済んでいますか?」と。

その場が、少し静まり返りました。

株式を売ったときの税金は、思ったより安くない

個人が会社の株式を売って利益を得た場合、分離課税として20.315%の税率が適用されます。仮に2億円の譲渡益が出れば、約4,000万円が税金になる計算です。

「それだけで済むならいい」と感じる方もいるかもしれません。ただ、M&Aにはもう一つ、活用できれば税負担を劇的に下げられる手段があります。それが「役員退職金」です。この機会を逃すかどうかで、手元に残る金額がまったく変わってきます。

退職金には、給与や賞与にはない特別な優遇がある

退職所得の計算には、他の所得と大きく異なる二つの仕組みがあります。

ひとつ目が「退職所得控除」です。勤続20年を超えた分については、1年ごとに70万円の控除が加算されます。勤続30年なら、800万円+70万円×10年=1,500万円が非課税枠として認められます。

ふたつ目が「1/2課税」です。控除を引いた残りの金額を、さらに半分にしてから税率を掛けます。

具体的な数字で見てみましょう。退職金が5,000万円、勤続30年の場合、控除1,500万円を引いた3,500万円を半分にした1,750万円が課税対象です。同額を給与や賞与として受け取った場合と比べると、課税所得の差は歴然です。この差が、ケースによっては億単位の税負担の違いになります。

「成立してから考えよう」では、絶対に間に合わない

ここが、最も多くの社長が見落としているポイントです。

M&Aが成立した後に退職金を設計しようとしても、税務上の「退職金」として認められない可能性があります。退職金が退職所得として扱われるには、役員が実際に退職したという実態が必要です。M&A成立と同時に代表を退任して退職金を受け取るシナリオを実現するには、少なくとも成立の3か月前から準備を始めることが必要です。

準備の中身は、株主総会や取締役会の決議、退職金規程の整備、功績倍率の設定など、税務調査に耐えられる書類の整備です。これらが揃っていない状態で退職金を支払っても、税務署から「賞与と同じ」と判断されるリスクがあります。

後悔するケースに共通するパターン

M&A後に「知っていれば…」となる社長には、共通する流れがあります。

まず、「話が来てから税理士に相談した」ケースです。相手方との交渉が始まってからでは、退職金の実態形成に必要な期間が確保できないことが多いです。

次に、「顧問税理士はいるが、M&A税務の専門ではなかった」ケースです。日常の決算や申告に強い税理士と、株式譲渡前の退職金設計に詳しい専門家は別物です。良い顧問税理士でも、M&A特有の節税機会を積極的に提案してくれるとは限りません。

そして、「売るつもりがなかったのに突然オファーが来た」ケースです。このパターンが最も厳しく、準備期間がゼロに近いため、退職金設計そのものが間に合わないことがあります。

「まだ売らない」という社長こそ、今動く

退職金規程の整備や功績倍率の設定は、M&Aがなくても社長が引退するときに必要になるものです。いつ話が来ても対応できるよう、今のうちに規程を整えておくことが、最もコストのかからない備えです。

特に、創業から20年以上が経つ社長は、退職所得控除の恩恵を最大限に受けられる勤続年数に達しているはずです。今期中に一度、顧問税理士に「退職金規程の現状確認」を依頼してみてください。

M&Aの話が来てから動くのではなく、来る前に準備を終えておく。それだけで、手元に残る金額が数億円単位で変わることがあります。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。