先月、M&Aで会社を売却されたある社長から、こんな話を聞きました。「売却後に退職金を受け取ろうと思っていたら、買い手に金額を削られてしまって……」
3,000万円のつもりが、実際に手にできたのは半分以下。しかも節税効果を活かせなかった分、税負担も想定より重くのしかかった。知っていれば防げた話なのに、と悔しそうにおっしゃっていました。
M&A前の退職金は、オーナー社長が手にできる最大の節税機会の一つです。ところが、その存在を知りながらもタイミングを間違えて、数千万円をみすみす取りそこなうケースが後を絶ちません。
退職金が「最強の節税ツール」と言われる理由
退職金には、給与や賞与にはない特別な優遇が2つ組み合わさっています。
まず「退職所得控除」。勤続年数に応じて、一定額が丸ごと非課税になります。勤続30年であれば、控除額は1,500万円。これだけでもかなりの規模ですが、さらに強力な仕組みがもう一つあります。
控除後の残額を、さらに2分の1にしてから課税する、という特別ルールです。これは給与所得や事業所得には一切ない、退職金だけの特権です。
たとえば3,000万円の退職金を受け取った場合。勤続30年なら1,500万円の控除後、残りは1,500万円。それを1/2にすると、課税対象はわずか750万円です。税率を当てはめても、実際の税負担は180〜200万円前後に収まります。3,000万円受け取って、税引き後の手取りは2,800万円前後。これが退職金課税の威力です。
M&A成立後に動こうとすると、もう遅い
問題は、このタイミングを一歩でも間違えると、効果がゼロになることです。
M&Aが成立した後に退職金を支払おうとすると、買い手の承認が必要になります。当然、買い手には「なるべく退職金を抑えたい」というインセンティブがある。交渉の結果として金額を削られたり、最悪の場合は「成立後の追加支払いは認めない」と拒否されることもあります。
さらに見落とされがちなのが、「決議のタイミング」です。退職金の額は、株主総会または取締役会の決議で正式に決める必要があります。売却交渉が佳境に入ってから慌てて動こうとすると、登記や手続きの関係で時間が足りなくなる。実務上、安全に動けるタイムラインは売却クローズの6ヶ月前までと考えておくのが無難です。
「どうせそのうちもらえる」が最大の罠
多くのオーナー社長が陥るのが、「売却後でも退職金はもらえるから今じゃなくていい」という思い込みです。
ところが現実は、売却交渉が始まった瞬間から状況が変わります。買い手はすべての費用を精査します。退職金もその対象で、「経営統合後の費用として重い」と判断されれば、売却価格との引き換えに削られる交渉材料にされます。自分で金額を決められる立場にいるうちに動く。これが鉄則です。
適正額の計算と手続きの流れ
退職金の適正額は「最終月額報酬 × 勤続年数 × 功績倍率」で計算するのが一般的です。代表取締役の場合、功績倍率は3.0が上限の目安とされています。これを超えると税務署から「過大退職金」として損金算入を否認されるリスクがあるため、数字の根拠をしっかり作っておくことが大切です。
手続きの大まかな流れは、①顧問税理士と適正額の試算、②取締役会または株主総会での決議(議事録を必ず残す)、③売却前に実際の支払い、という3ステップです。M&Aの話が持ち上がってから動こうとすると、時間的な余裕がなくなることがほとんどです。
もし今、M&Aの検討を頭の片隅に置いているなら、退職金の話を顧問税理士に持ち出すタイミングは「今すぐ」です。節税の話は後回しにするほど選択肢が消えていく。3,000万円の退職金枠を活かせるかどうかは、動き出すタイミングだけで決まります。
※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。